昭和の名力士2
昭和の名力士シリーズ第2弾です!
パッケージの裏側です。
戦後復興期から高度経済成長期に入る前までの時代を支えた力士たちですね。
このころの日本はどうやって復活していったのでしょうか。
大相撲の世界は領国から蔵前へ国技館が移転し、四本柱がなくなり吊り屋根しきになるなどの変化が起こった時代です。
またそれぞれの力士を簡単にご紹介させていただきます!
今回取り上げられている力士はこの5人の横綱です!
第41代横綱 千代の山 雅信
知られざる(?)道産子横綱第一号です。
いわゆるソップ型の力士ですね。
つっぱりの威力はすさまじかったと伝えられています。
新入幕の場所に10戦全勝を遂げるなど、早くから大器として期待されていました。
しかし、当時の横綱が不振だった煽りを受け、連覇を果たすも横綱へ推挙されなかった経験もあります。
横綱昇進後も成績不振が続き、横綱返上を申し出るなど苦難の道を歩んだ横綱です。
ですが、晩年には全勝優勝も遂げ、横綱の栄誉を守ります。
引退後は出羽海部屋から破門される形になりながらも九重部屋を創設し、横綱北の富士を育てました。
九重部屋は千代の山⇒北の富士⇒千代の富士⇒千代大海と連綿と続いています。
第42代横綱 鏡里 喜代治
優勝掲額の画像ですね。
つい最近まで、優勝額は手書きで彩色されていました。(しかもお一人の方がやられていたそうです)
見事な太鼓腹、千代の山と好対照にアンコ型力士の代表とも言えるでしょう。
双葉山の興した時津風部屋の力士です。
鏡の文字は入門当時の師匠元大関鏡岩の鏡です。
双葉山譲りの右四つの方がありました。
土俵入りも何となく双葉山の面影を感じさせるものでした。
4回の幕内最高優勝を果たしています。
満80歳まで長生きされました。
第43代横綱 吉葉山 潤之輔
吉葉山も北海道出身の力士です。
兵隊にとられ、一時は戦死したとの情報が流れるも無事に生還。
がりがりにやせ細った身体を元に戻すため、胃袋と名付けられるくらい食べたそうです。
好成績を幾度も残しながらもなかなか優勝できず、初優勝は全勝優勝で横綱昇進を決めました。
雪のパレードは白黒映像でもその喜びや感慨が伝わるほどです。
横綱昇進後は高齢でもあり、思うような成績は残せず、幕内最高優勝は成し遂げられませんでした。
兵役や優勝を幾重にも逃すなど、悲劇の横綱とも言われました。
角界きっての美男子としても有名でした。
引退後は高島部屋を興し、数多くの関取を育て上げました。
第44代横綱 栃錦 清隆
現在の両国国技館を建設した春日野理事長こと、元横綱栃錦です。
番付を上げていった頃はこの写真の様なアンコ型ではなく、がりがりの身体でした。
業師としてしられ、数々の珍手を残しているそうです。
7連敗の後の8連勝で勝ち越したこともあります。
大内山を投げ飛ばした首投げは鮮やかです。
横綱昇進後は徐々に体重増加、若い頃とは全く異なる横綱相撲に変化していったそうです。
初代若乃花と栃若時代を築きました。
今回も5横綱の写真です。
栃錦の昇進に呼応して東富士が引退したため、番付には5横綱が載ったことはありません。
豪華絢爛ですね。やっぱり横綱姿は見ているものを魅了します。
第46代横綱 朝潮 太郎
胸毛の朝潮というとわかると思います。
その男性的な風貌をもった力士でした。
高砂部屋伝統の朝潮を名乗っています。
当然映像での取り組みしか見たことがありませんが、大きな体であるのにしっかりと腰を割って寄り押し立てるその姿は、相手力士にとって脅威だったと思います。
引退後は高砂部屋を継承し、大関小錦を育てました。
以上横綱達のご紹介でした。
戦後黎明期を支えた横綱、どの横綱にも様々な物語があります。
もしかすると取り組みの激しさ、土俵の充実という点ではこの頃が一番だったかもしれません。