昭和の名力士8
昭和の名力士シリーズ第8弾です!
今回は輪湖時代から千代の富士時代までの大関たちです。
大関 前の山太郎
突っ張り得意の気迫ですもうをとる力士でした。
ですが、大関在位中に無気力相撲を指摘され大関陥落。
再起はなりませんでした。
高砂一門から破門される形で理事になりました。
大関 大受久晃
土のにおいのする力士と言われるほどの愚直な押し相撲一徹の力士です。
史上初の三賞独占も果たしました。
一方で大関昇進後は急激に成績が下降、僅か5場所で大関から陥落しました。
陥落直後の場所は9勝6敗と惜しくも大関復帰ならず、最後は十枚目に陥落し引退されました。
大関 魁傑將晃
次に述べます旭國との死闘は凄まじいものでした。
興味のある方はこちらをご覧ください。
その土俵態度は極めて紳士的であり、休場は試合放棄の名台詞を残しています。
一度大関昇進するも陥落、その後10勝返り咲きは生かせませんでしたが、平幕優勝を契機に再度大関昇進し、その実力は証明されましたが、大関としては短命に終わりました。
年寄り放駒を襲名し、横綱大乃国を育て、自身は理事長も務めました。
大関 旭國斗雄
小さい体ながら非常に粘りのある相撲をとりました。
膵炎の持病があり、度々入院生活を送っています。
ですが、土俵で死ねたら本望と土俵に上がり続けました。
一度14勝1敗の好成績を残しましたが、北の湖との全勝対決に敗れ、惜しくも幕内最高優勝は成し遂げられませんでした。
引退後は立浪部屋から独立し、大島部屋を興しました。
モンゴル力士をスカウトし、旭鷲山・旭天鵬を育て、今のモンゴルブームのきっかけを作りました。
大関 二代目増位山大志郎
史上初の親子大関です。
当時は大関が貴ノ花一人でした。
相撲の番付として大関は必ず東西に一人ずついなくてはならないことになっています。
横綱は不在でも問題ありません。
その時は横綱が横綱大関として大関を兼ねます。
そんな時代背景もあり大関を掴み取りました。
イケメン力士、右内掛けは鮮やか、美術も二科展へ選ばれ、歌も上手と多芸な力士でした。
大関 琴風豪規
中学生力士として入門しました。
膝の大けがにより幕下まで陥落しますがそれを乗り越え、大関を務めました。
がぶり寄りは今は同じ佐渡ヶ嶽部屋の後輩大関琴奨菊が得意としていますが、琴風の代名詞ががぶり寄りでした。
NHKサンデースポーツに解説として度々登場しています。
大関 北天佑勝彦
均整のとれた体、大関昇進三場所は11勝12勝14勝と初優勝で昇進しました。
非常に充実した成績でした。
しかし、大関昇進後は成績が安定せず、横綱への期待は夢と消えました。
若くして亡くなられました。
大関 若島津六男
大関として全勝優勝を遂げ、横綱昇進まったなしかと思われましたが、横綱は掴み取れませんでした。
その後は糖尿病もあり力が衰え、引退しました。
現在は年寄り松ヶ根から二所ノ関を襲名し、二所ノ関一門の総帥として活躍されておられます。
大関 朝潮太郎
近畿大学から学生相撲出身で高砂部屋へ入門しました。
何度も大関昇進のチャンスを掴みながら生かせず、苦労の末大関へたどり着きます。
現在は高砂親方として一門の総帥の地位にあり、横綱朝青龍を育てました。
以上、昭和の名力士シリーズ第8弾でした!
続きます!