昭和の名力士7
昭和の名力士シリーズ第7弾です!
横綱編が終わり、大関編へと突入して参ります。
戦後間もなく~柏鵬時代のの大関たちですね。
正直に言います。
そこまで詳しく知らない力士もいますので、(今までは自分の知識のみで書いていました)色々ネット参考にしてます_(_^_)_
- 大関 増位山大志郎
- 大関 松登しげ郎(しげは日に成)
- 大関 汐ノ海運右エ門
- 大関 大内山平吉
- 大関 佐賀ノ花勝巳
- 大関 三根山隆司
- 大関 名寄岩静男
- 大関 琴ヶ濱貞雄
- 大関 豊山勝男
- 大関 北葉山英俊
- 大関 栃光
- 大関 若羽黒
- 大関 大麒麟
- 大関 清國
大関 増位山大志郎
優勝2回を経験しています。
体調不良であっさり引退、体調回復に伴い現役復帰を希望するも否決されてしまいました。
三保ヶ関部屋を興し、横綱北の湖・大関増位山(実子)・大関北天佑など数々の名力士を育てました。
大関 松登しげ郎(しげは日に成)
ぶちかましての押し相撲でした。
若乃花とともに大関に昇進しますが、後に陥落、平幕でも長く相撲を続けました。
大関 汐ノ海運右エ門
全盛期が戦争と重なった不遇の力士時代だったようです。
それでも大関へ二度昇進するなど力のある所を見せました。
細身ながら怪力であったようです。
大関 大内山平吉
身長が2mをこえる巨漢力士でした。
背が高く、ぶつかるため吊り屋根の高さが変えられたそうです。
双葉山の時津風部屋の力士でした。
大関 佐賀ノ花勝巳
佐賀ノ花と言えば、現役時代よりも引退し二所ノ関親方となってからの方が印象月四のではないでしょうか。
横綱大鵬・大関大麒麟・関脇麒麟児・関脇金剛など数々の名力士を輩出しました。
漢書から弟子に四股名をつけていました。
大関 三根山隆司
吉葉山・輝登と共に高島三羽烏として注目されていました。
親方として大関大受を育てました。
大関 名寄岩静男
双葉山・羽黒山と並んで戦中戦後の立浪部屋を代表する力士の一人です。
大関に二度昇進するも二度とも陥落、その後に創設された三賞敢闘賞を受賞した時には涙を見せ、涙の敢闘賞として映画となりました。
立ち合いに相手にじらされると怒りを露わにし、“怒り金時”と呼ばれたそうです。
大関 琴ヶ濱貞雄
琴ヶ濱と言えば、代名詞とも言われる左からの内掛けはそれも鮮やかなものでした。
まわしを切ることを覚えてからは更に切れ味を増したそうです。
ですが、軸足となる右足を痛めてからは成績が下降、横綱も期待されましたが果たせませんでした。
大関 豊山勝男
東京農業大学から鳴り物入りで入門した学生相撲出身大関です。
横綱も当然期待されましたが反身のすもうのためか、横綱はおろか幕内最高優勝も果たせず引退しました。
引退後は年寄時津風として理事長も務めました。
大関 北葉山英俊
173cmと小さい体ながら柏鵬両横綱によく検討し、優勝のカギを握る男と評されました。
自身も幕内最高優勝を遂げています。
相手の力を利用することが上手な力士だったそうです。
大関 栃光
非常時真面目な土俵態度の力士で、待ったをしないことでも評価されました。
押し相撲の力士で栃ノ海と共に大関に昇進します。
幕内最高優勝は経験できませんでしたが、大関陥落が決まると潔く引退しました。
大関 若羽黒
立浪四天王の一人です。
生家がクリーニング店であったことからドライ坊やと呼ばれました。
外出の際に羽織袴を着ず、アロハシャツや背広を着るなど異端児っぷりを発揮しました。
新大関優勝を成し遂げています。
大関 大麒麟
くにゃくにゃした動きが特徴の土俵上でした。
実力はありましたが右腕骨折の影響もあり優勝へは届きませんでした。
うっちゃりもしばしば見せました。
大関 清國
横綱大鵬と同期でしたが、清國が大関に昇進する頃には大鵬は引退も見えてきている頃でした。
手をつかない立ち合い全盛期にしっかり手をつくきれいな立ち合いを見せていました。
新大関優勝を果たしました。
以上、昭和の名力士シリーズ第7弾でした!
続きます!